父からのギフト

2017年5月23日

この写真は、昭和50年(1975年)のお正月に撮影されたと思われる私の家族が全員で写っている唯一の写真です。

その年の夏、父は天国に旅立ちました。
享年41歳、まだ1歳になる前の私と母、姉を残して・・・

父は航空自衛隊三沢基地で管制官をしていました。

幹部として若い時からたくさんの部下を抱えていたそうです。
いまだに父を慕って、私に手紙をくださるかたも大勢いるほどの人格者だったそうです。

でも、残念ながら私には、父の記憶は全くありません。

元部下の方から父の話しを聞いても、なんか「どこか知らないおじさん」のことを話されているような違和感がありました。そして母に対しても、父のことを積極的に聞くようなことはしませんでした。正直、あまり興味がないということもありましたが、たぶん母が思い出すと悲しくなってしまうのではないかと、幼心に感じていたのでしょう。

だから私の中で「父」という概念がなかったのです。

でも父がいないことで悲しい思いをしたことはありませんでした。
母が父の代わりまで一生懸命育ててくれたおかげです。

但し、今振り返ってみれば、身近に父親のような「大人の男性」がいなかったため、物心ついたころから「大人の男性」への接し方がわからず、苦手意識をもっていた気がします。

だから、学校の先生が女性の時には積極的に発言したり、気軽に相談したりできていましたが、男性の先生の時にはあまり積極的に意思表示ができませんでした。

さらに、自分が成長して大人になるにつれて、自分自身が大人の男性のイメージがないため、漠然とした不安だけが募っていきました。自分の中で父親像があるとないとでは、全く違うのではないかと思います。

そして、当時はまだ偏見も強かった母子家庭という立場も感じていて、あまり目立たないように、うまく世間を渡り歩ける処世術のようなものを習得していたと思います。だから大学や社会人になっても、上司といわれる大人世代には表面的にはコミュニケーションをとれていたのですが、つねに緊張の連続だったことを覚えています。
(正直、今でも少し緊張しています)

ちなみに、自分が大人になる理想像がないということを言い訳に、大学ではあまり学業には専念せず、バイトや趣味のバイクに明け暮れていました。この時には本当に時間を無駄遣いしていたと思います。

その後、大学時代に出会った妻と結婚し、子どもは三人生まれました。
でも、やはり明確な父親像がなかったため、何か漠然と不安を抱えて育児も妻に任せたきりだったと思います。

私が40歳を迎えようとしたとき、もうすぐ父の年齢を超えてしまうことに、自分はこの先どうあるべきかを真剣に悩みました。まさに苦悩の日々でした。子供たちは順調に成長していますが、子供達にどんな父親像を見せたらよいのか・・・

大きな出来事が訪れます。それは父が病床の時に書いた手紙を見つけたことです。

この手紙とは、私の父が自分に何かあった時のことを憂い、あらかじめ父が信頼を寄せていた叔父さんに出したものでした。

「まさか自分がこうなってしまうとは、受け入れるしかない運命なのか・・・」
「自分の健康を過信してお酒もたばこも無制限、家庭も顧みずに仕事に明け暮れた」
「まだ乳飲み子を残して、妻(私の母)には迷惑をかけてしまう」
「・・・とにかく生きたい」

この手紙を、たまたま帰省していた時に物置を整理していたら発見したのです。

そしてこの時こそが、私と父親が40年の歳月を経て、初めて繋がった瞬間でした。

このメッセージは父親から私に対するギフトであると受けとめ、父親から人生という時間をバトンタッチしました。
父親は私に、父親がこれから死ぬほどに切望した生き方について気づきをくれたのです。

そして現実を逃避する目的で、毎日のようにお酒を飲んでいた(酒に人生を支配されていた)のを、まずはきっぱりとやめました。
ちょうど人間ドックでも、お酒はやめないと大変なことになると言われていた時期でした。

そして、出会ったメンターの指導を受けつつ、自分の人生をしっかり生きていくことを決めました。それが、自分の子供達に対する父親像であると信じて。

父からのギフト、それは、自分が変わらなければならないというきっかけとなった一通の手紙でした。

お読みいただきまして、ありがとうございました。

 

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