母からのギフト
この写真は昭和56年頃に撮影された、私と母が一緒に写っている数少ない写真です。
そもそも私は、自分ひとりだけが写っている写真が多いことに疑問を持っていました。
でもその理由を、数年前に気づきました。
私は母子家庭だったので、出かけるときには母と私だけ、出かけた先で写真は母が撮るので、母が私と一緒に写ることはなかったのです。
母子家庭で育ち、確かに不便・不自由はありましたが、不幸ではありませんでした。
私が知らないところで、母が一生懸命私と姉を育ててくれたのです。
今から40年ほど前は、世間の母子家庭に対する視線はあまり良くなかったそうです。
でも、母親はそれを一切感じさせないほど、明るく前向きに私と姉を育ててくれました。
知り合いのお母さんがたからも「よく不良にならなかったね」と言われるほど、母子家庭=家庭環境が劣悪、子供は非行に走る・・・ という時代だったそうです。
また私の母は、母子家庭だからと教育を諦めさせることはしませんでした。
教育の大切さを知っていたからなのでしょう。
ただ、一つだけ覚えていること、それは母から申し訳なさそうに言われた言葉です。
「信夫、もし将来仕事を選ぶとしても、銀行には就職できないと思う、ごめんね」
今の時代に生きている我々だからこそ、そんな馬鹿な・・・
と思うかもしれませんが、当時の母子家庭の子供は、そのような信用に直接かかわるような堅い職業には就職できないという考えがあったようです。
別に銀行に就職したいなんて1ミリも思っていなかったのでどうでもよかったのですが、ただ単に、頑張っても(母子家庭なんてなりたくてなったわけでもないのに)自分の人生の選択肢に制限ができてしまうんだ、そして、なんとなく自分は世の中に遠慮して生きていかなければいけないんだと感じたことを覚えています。
その後、姉も私も奨学金をもらいながら東京の大学へ、二人とも下宿させてもらい、卒業することができました。
その後、就職し、結婚し、子供も三人生まれました。
姉も私も高校卒業と同時に実家から上京したので、母は田舎で一人で住んでいました。
そして母は孫と会うのがとても楽しみでした。
でも、私が帰省するのは年に数回、もっと孫に会わせてあげたかったのと、もし母と一緒に暮していれば、もっと早く母の異変に気が付けたのではというのは悔やんでいます。
2015年の夏、母からの電話で「腫瘍があるようだ」「主治医から説明があるから同席してほしい」と言われ、あわてて帰省しました。
医者から告げられたのは深刻な状況でした。でも、母は私に「仕事で忙しいところ、つき合わせちゃってごめんね」と言ったのです。
どこまで母という人は、自分のことを差し置いて、他人のことを気に掛けるのだろう・・・ でもそれが母というものなのだなと思いました。
その後、母は抗がん剤治療をはじめ、壮絶な闘病生活となりました。
が、残念ながら1年もたず、2016年7月、息を引き取りました。
疲労のため姉が入院してしまったため、急きょ私が付き添いのために帰省した数日後のことでした。まるで私の到着を待っていたかのように。
私が握った手の中で、心電図が止まったのです・・・「ピ――――――――」
この状況は、テレビのドラマなどでシーンとしては見慣れていましたが、いざ実際に自分が直接経験したことは、うまく表現できません、本当に衝撃でした。
その時に、母の人生が終わった、母の時間が無くなった・・・
母の時間というものが、この世から存在がなくなったのです。
その時「命とは時間である」ということを、母が自分の死と引き換えに私に伝えました。
「命とは時間である」ということは、今この瞬間の時間の積み重ねこそが命である。
その時間を無駄に過ごすことは、命を無駄に過ごすこと。
母からもらった命、時間を無駄にすること、それは一番してはいけないこと。
だから私はその時から時間を無駄にしないと決めました
「他人の人生ではなく、自分の人生をいきる」
「ワクワクして充実する時間しか過ごさない」
そして母がしてきたように
「人のために尽くす」
ということです。
母からのギフト、それは無言ながらも自らの死と引き換えに私に伝えたものだったのです。
お読みいただきまして、ありがとうございました。